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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  2


約束の時間の少し前にラウンジを出た柚季は、そのまま社員用の連絡通路を使ってホテルの3階にあるスタッフルームへと向かった。
そこは2階にある彼女のような一般の職員が使う事務所兼休憩室とは一線を画す、管理者サイド、つまりはお偉いさんのために設えられたオフィスがある場所だ。
扉の前に立ち躊躇いがちに軽くノックをすると、向こうから「どうぞ」という返事が返ってくる。
「失礼します」
ドアを開けて一礼した柚季は、中へ入ると扉に手を添えて音をたてないようにゆっくりと閉める。正面に向き直った彼女の目に入ってきたのは、このホテルの副支配人であり、ブライダル部門の責任者でもある神保だった。
「桐島さん、そちらへ」
デスクの前にある応接セットへと促されたが、彼女は軽く首を横に振ると視線を下げたままでソファーの傍らに直立した。
「いえ、お時間を取らせたくないのでこのままで構いません。それで、あのお話とは……?」
自分の方に目を向けようとしない柚季の態度に微かな苛立ちの表情を浮かべた神保は、側にあった封書に手を添えてこちらに滑らせた。
「これのことだが」
目の前に置かれた封筒の表書きには見覚えのある筆跡。
それは彼女が出した退職願だった。
「あ、これは……」
「昨夜、オフィスに戻って来たらチーフからこれを渡された。君から言付かったとね。どういうことか、本人に直接経緯を説明して頂きたいと思ってね」

妹の梨果に良かれと思って勧めた披露宴は大失敗に終わり、その顛末は後々までスタッフの語り草になりそうだ。
新婦が飲み過ぎて急遽退席した末にホテルから失踪、新郎も最後まで席に戻れないままお開きとなった披露宴はまるでお通夜の席のような静けさだった。
親族たちは何が起きているのかも分からないまま、にとにかく出された黙々と食事を片づけていく。
多少酒が入って騒いだ人もいたようだが、もはや会場は陽気にお祝いをするような雰囲気ではなく、さっさと食事を済ませて帰ろうという白けた気配が漂っていて、スタッフたちもどう対応して良いのか分からなかったという。

「これ以上のトラブルが起きることは滅多にないだろうから、最悪のケースを体験することができた。もう怖いものなんかないですよ」
後日ミーティングの席で誰かが言った言葉に、柚季の手前スタッフはみな曖昧に笑ったが確かにそうかもしれない。今まで何度かお義理で出席したような披露宴でさえ、これ以上ひどい展開のものにお目に掛かったことがない、と親族の柚季でさえ思ったくらいだから。
現にその後、プレオープンの間にリハーサルを兼ねて行った挙式、披露宴はすべて滞りなく終わり、回を増すごとにスタッフの動きも様になってきている。それらを鑑みても彼らに多少のアクシデントには臨機応変に対処するだけの機智と度胸を植え付けたのが件の披露宴であったことはほぼ間違いないだろう。
図らずもスタッフとしてばかりか親族としても当事者となり、居た堪れない立場に立たされてしまった柚季に対し、ほとんどのスタッフは同情的だったが、それでも何となく気まずい思いが残った。
中にはほんの一握りだが彼女に批判的な人物もいて、いろいろと言われることでせっかく培われた職場の良い雰囲気を壊してしまうことも怖かったのだ。
そして本当はもう一つ。
彼女の中にある戸惑いの感情は神保には悟られたくないもので、決して口にするつもりはなかった。

「今、スケジュールが入っているお式に関しては責任を持って弾かせていただきます。ですが後任が決まり次第、この仕事をその方に引き継ぎたいと考えています」
「理由は?」
「先日の……妹の件です。やはりあれだけの騒ぎを起こしてしまった以上、このままここでお世話になるのは心苦しくて」
「ほう」
それまで自分のデスクに両肘をつき、そこに顎を乗せて話を聞いていた神保は、徐に立ち上がると彼女の前まで歩み寄った。
真正面に立たれ、その圧迫感から反射的に身を引く柚季の反応を嘲笑うかのように、彼はその分こちらに体を寄せてきた。
「理由は、本当にそれだけなのか?」
長く形良い彼の指が、俯いた彼女の頬から顎のラインに沿ってなぞっていく。
その感触に体を震わせる彼女の反応を確かめると、神保は唇に薄い笑みを浮かべながら首筋から喉元へと指先を滑らせた。
「や、止めて下さい」
ブラウスの生地越しに鎖骨の窪みあたりで留まる手を掴んで引き剥がすと、それを振り払おうとした柚季だが、逆に腕を抑え込まれて彼の胸にもたれ掛ってしまう。ふわりと香るトワレに微かに混じる、彼から発せられる熱を感じ取った柚季は、呼びさまされた記憶に抗うように両手で彼を突き放した。
「こ、これ以上はセクハラです。大声をあげて誰か呼びますよ」
実際にはそんなことはできっこないことは分かっている。仮に誰かにこの場面を見咎められたとして、その経緯を説明することは彼女にとって決して喜ばしいことではないのだから。
「どうぞ、私は一向に構わないよ。ただし、君にこの状況を詳らかにするだけの勇気があればの話だがね」
思っていたことに図星を指されて顔を強張らせつつも、柚季は彼との間に距離を取ると一瞬の隙を衝いて身をひるがえした。
神保は背後で彼女が消えた後に大きな音を立てて閉まったドアの音を聞きながら、目を閉じて疲れた表情を浮かべる。
「柚季、君はいつまでそうやって、自分の感情から目を背け続けるつもりなのか」




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